知りタイムズ

「学校・教育関係」を中心とした、2chでの気になる記事、面白いと感じた記事を扱うまとめブログです。まとめながら自分も色々なことを知ることができたらと思っています。

    タグ:歴史



    1 @仮面ウニダー ★ :2024/09/09(月) 12:51:35.06
    日本サッカー協会のシンボルマークの由来を日本神話の八咫烏(やたがらす)と記述した中学歴史教科書に協会が修正を求めていた問題で、
    育鵬社(東京)は八咫烏に「など」を追加する訂正を文部科学省に申請した。

    来春から使用される育鵬社の教科書は、日本神話のコラムの中で「このマークはヤタガラスという神武天皇の道案内をしたと伝えられる
    3本足のカラスがモデルになっている」と記述。同様の記述は親会社の扶桑社時代も含め、平成16年度以降、教科書検定に5度合格していた。

    これに対し、サッカー協会は「シンボルマークのカラスは、八咫烏であると同時に中国の古典由来の三足烏(さんそくう)でもある」と
    指摘していた。

    訂正申請は「中国」の文言を避け、「この3本足のカラスは、神武天皇の道案内をしたと伝えられるヤタガラスなどがモデルになっている」
    と変更したいと文科省に求めた。サッカー協会側は事前に申請内容を了承したという。

    教科書検定は、合格後でも誤った事実の記載や客観的事情の変更などで出版社が記述変更を申し出る「訂正申請」の仕組みがある。
    文科省が承認すれば変更される。(渡辺浩)

    2024/9/9 11:16
    https://www.sankei.com/article/20240909-WG2XT4QMLZDVHKSZBKIYJTSWVQ/

    ※関連スレ
    【産経新聞】 日本サッカー協会、マークの由来は「八咫烏」だけでなく中国古典も 教科書に修正要請 [9/3] [仮面ウニダー★]
    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1725336173/
    【産経新聞】 「八咫烏」はチャイナ由来のシンボルなのか [9/7] [仮面ウニダー★]
    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1725679633/

    【日本サッカー協会マークの教科書記述、「八咫烏"など"」に変更】の続きを読む



    1 冬月記者 ★ :2024/09/03(火) 17:12:06.96
    https://news.yahoo.co.jp/articles/12e2f44f08b9f3f5147112c53150df01587e5113?page=1


    (出典 i.imgur.com)


    日本サッカー協会、マークの由来は「八咫烏」だけでなく中国古典も 教科書に修正要請


     日本サッカー協会のシンボルマークにデザインされている3本足のカラスを日本神話の八咫烏(やたがらす)と記述している教科書に対し、協会が修正を求めていることが分かった。

     協会は「シンボルマークのカラスは、八咫烏であると同時に中国の古典由来のカラスでもある」と説明。教科書会社は記述の修正を検討している。


    ■神武天皇を道案内

     日本サッカー協会のマークが制定されたのは昭和6年。彫刻家の日名子実三(ひなご・じつぞう)氏が八咫烏をモチーフに、3本足のカラスがボールを押さえているマークの原案を作成した。

     八咫烏は古事記や日本書紀に登場するカラスで、神武東征で神武天皇が熊野から大和を目指す途中、大きなカラスに道案内され、即位したとされている。

     五輪やワールドカップ(W杯)の前には、協会関係者が八咫烏ゆかりの世界遺産・熊野本宮大社(和歌山県田辺市)などで必勝祈願を行っている。協会相談役の川淵三郎氏も「協会のマークは八咫烏」と繰り返してきた。

     日本代表のエンブレムとしても使われている3本足のカラスは、日本チームを神武天皇のように勝利に導くシンボルとされている。


    ■協会「日中の故事から」

     しかし、サッカー協会によると、マークの由来は八咫烏「だけではない」という。

     昨年発刊された「日本サッカー協会百年史」は、古事記や日本書紀には八咫烏の足が3本だったという記述はなく、前漢の思想書「淮南子(えなんじ)」などにある三足烏(さんそくう)と混同されたと指摘。

     協会のマークの原案を作成した日名子氏もこうした事実を知っていたはずだとして、マークのカラスは八咫烏であると同時に、中国の古典に出てくる三足烏だと結論付けている。

     日本サポーターとしては釈然としない面もあるが、協会は以前からこうした見解を公表してきた。日本蹴球協会時代の昭和49年に発行された「日本サッカーのあゆみ」や平成8年の「日本サッカー協会75年史」に「日中の故事から」などと記されている。


    ■教科書検定を5度合格

     シンボルマークの由来を八咫烏と記述しているのは育鵬社の中学歴史教科書。日本神話のコラムの中で「このマークはヤタガラスという神武天皇の道案内をしたと伝えられる3本足のカラスがモデルになっている」としている。同様の記述は親会社の扶桑社時代も含め、平成16年度から令和5年度まで、文部科学省の検定に5度合格している。

     日本サッカー協会コミュニケーション部は「以前から由来は1つではないとの立場なので、単独の由来だけで記述しないようお願いした」とコメント。

     育鵬社教科書事業部は「指摘の趣旨を踏まえ、適切に対応したい」とし、文部科学省への訂正申請を検討している。

    【日本サッカー協会、「中学歴史教科書」の記述の修正を要請…】の続きを読む



    (出典 blogger.googleusercontent.com)



    1 蚤の市 ★ :2024/07/13(土) 06:37:44.68
     来春から使用する中学生向け歴史の教科書で、江藤新平(1834~74)ら不平士族による明治政府への「佐賀の乱」を巡る記述...(以下有料版で)
    「佐賀の乱(佐賀戦争)」とかっこ付きで初表記した帝国書院の歴史教科書
    https://www.nishinippon.co.jp/sp/image/808187/


    西日本新聞 2024/7/13 6:00
    https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/1234191/

    【教科書に「佐賀戦争」表記 地方の視点も考慮し「佐賀の乱」と併記 帝国書院】の続きを読む



    1 昆虫図鑑 ★ :2023/11/04(土) 16:35:26.48
    中国の歴史書「魏志倭人伝」(3世紀末)には、邪馬台国の女王・卑弥呼の名前が記されている。憲政史家の倉山満さんは「歴史の授業では『中国の歴史書が事実』と刷り込まれるが、実際は不正確な記述が多い。『魏志倭人伝』を聖典の如くありがたがる必要はない」という――。

     ※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本古代史』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

    ■「中国の歴史書に書かれてあることが事実」なのか

     仁徳天皇を教科書で教えないなど、けしからん。

     仁徳天皇といえば世界最大の古墳を造ったと私などの世代では習ったものですが、今は誰のお墓か分からんという理由で、「大仙古墳」とのみ記されます。三十代で塾講師を始めた時、「なんじゃこれは? 仁徳天皇陵は、どこに行った?」と絶句したのを思い出します。

     こういう「科学」を名乗れば何をやっても許されると信じている連中を、私は「素朴実証主義者」と呼んでおちょくっていました。「素朴」と書いて「クソ」と読みます。

     高校の日本史教科書は、「地球に原始人が出てきて、外国には文明があり、日本は縄文時代の後に弥生時代があって、ムラからクニに大きくなる過程で、王様が中華皇帝に使いを出して……」と始めます。

     確実な事実だけを取り出そうとしている気なのでしょうが、物語(ストーリー)が無いので、何を言っているかわかりません。歴史(ヒストリー)は物語なのですから、「何を基準に事実を描くか」が無く、思い付きで事実を羅列しても何もわかりません。

     こんな教科書で習っていたら、「中国の歴史書に書かれてあることが事実」と刷り込まれるのは確かでしょうが。

    ■「魏志倭人伝」は単なる参考資料

     その中国の歴史書で有名なのが、邪馬台国の女王・卑弥呼が出てくる「魏志倭人伝」です。その「魏志倭人伝」自体が卑弥呼から五十年後に書かれた、近代史家なら参考資料にもしないような、五次資料くらいの代物なのですが。

     しかし、それしか残っていないなら、使うしかない。

     実は『日本書紀』は誠実に取り組んでいます。しかも、「魏志倭人伝」の引用を、よりによって「神功皇后紀」にぶっ込んでいます。「あっちの国では、こういうふうに記録されているんだけど……」という戸惑い炸裂の紹介の仕方です。

     『日本書紀』の、神功皇后三十九年、四十年、四十三年の記事を、ご紹介しましょう。

    (略)

    ■正史・日本書紀には卑弥呼も、邪馬台国も書かれていない

     これが、『日本書紀』で触れられている「魏志倭人伝」のすべてです。

     神功皇后の統治の年数をあちらの年代に合わせて計算して「三十九」「四十」「四十三」としていますが、「○○天皇は百歳まで生きた」なんてのを史実と認めない限り、どう計算しても神功皇后と卑弥呼は年代が合いません。

     身も蓋も無いことを言うと、ヤマト王権とは何の関係も無い北九州の族長が魏に「私が倭の王様です」と名乗って、向こうが真に受けて信じた、とすれば筋は通ってしまうのですが。

     これ、何の根拠もない妄想でもなく、足利幕府と持明院統の朝廷に楯突いて九州を占拠していた後醍醐天皇の皇子である懐良親王が明に使いを送って、「私こそ日本の支配者だ」とかナントカ嘘八百億を並べたら、マヌケにも皇帝も政府も信じたという、明確な史実が残っているのです。

     ちなみに、明の国書の宛所は「良懐」です。西暦一三六九年にもなってこんなことをやっているのが中華皇帝、自分たちの歴史はともかく、外国の歴史を真面目に記述する気があるとは思えません。

    (略)

     別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。

     本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。

    https://news.yahoo.co.jp/articles/8ce12d79a9f8bb3dd6bc9b9a5b660df19c68c888?page=1

    【学校で習った「中国の歴史書」はデタラメばかり…日本書紀に「卑弥呼」も「邪馬台国」も出てこない本当の理由】の続きを読む



    (出典 newsatcl-pctr.c.yimg.jp)


    1 樽悶 ★ :2023/05/29(月) 19:34:47.21
    佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。

    ■「線刻」と呼ばれる多数の記号

    吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。

    ■来月に石棺墓の入り口を開ける

    邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。

    5/29(月) 15:27配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142



    弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。

    吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。

    この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。

    4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。

    弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。

    吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。

    吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。

    佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。

    2023年5月29日 5時40分
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html



    世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。

    「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)

    吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。

    見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。

    佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。

    6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。

    5/29(月) 19:08配信
    https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c

    【【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓】の続きを読む

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